『砂糖の世界史』(川北 稔著/岩波ジュニア新書/1996年)
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内容紹介と感想
本書は、「砂糖の生産や普及の歴史」を解説した本だが、関連して以下のような事項についても、詳しく説明されている。
▪砂糖の生産に伴い生じた人の移動(アフリカの黒人奴隷がカリブ海諸島などの砂糖プランテーションに連れてこられた歴史)
▪イギリスで茶(紅茶)の普及とともに、砂糖の需要と生産が伸びていった背景
▪産業革命の砂糖普及への影響(※工場経営者にとって、労働者の(砂糖入り紅茶を含む)安価な朝食を確保することの重要性が高まった)
また、北米を主題とする本ブログとしては、アメリカ植民地との関係が説明されている点も興味深かった。
本書は、上記のような様々な事項を織り交ぜながら、砂糖の歴史全体の流れがスムーズに理解できるように解説されている。
「モノ(砂糖)の交易・貿易の歴史」、「カリブ海の歴史」、「奴隷貿易にともなった中米・北米の黒人の歴史」、「社会見学・工場見学(砂糖の製造過程)」に興味のある人には、ぜひとも読んでいただきたい一冊だ。
また、アメリカ南部での、綿花や砂糖プランテーションの歴史に関心のある人にも、興味を持って読んでいただけると思う。
以下に、上記それぞれの項目について、要約/サマリー的にまとめてみる。5分で読めるので、本の内容の参考にしていただきたい。
(※要約/サマリーの過程で、単純なミスや、解釈違い、重要事項の記載漏れ等が生じているかもしれないため、本記事はあくまで「本書にだいたいどういうことが書かれているかの参考」として読んでいただき、正確な内容は、実際に本書を読んで確認していただきたい。)
砂糖の生産や普及の歴史
砂糖は、世界中で需要のある「世界商品」であったため、16-17世紀にかけて生産や流通ルートを抑える競争の対象となった。
砂糖きびの栽培には、適度な雨量や温度、新鮮な耕地、規則正しい集団労働が必要であったため、ヨーロッパ諸国の事業家は、アフリカから奴隷をブラジルやカリブ海の島々に連れていき、プランテーションで働かせ、砂糖きびの栽培と加工を行ってきた。
歴史をさかのぼると、砂糖がヨーロッパなどの地域に伝播したのは、イスラム教徒の手によってであり、最初は東地中海の島々に広まったが、その後ポルトガル人によって、大西洋沖にある島々に中心が移った(中心市場であったベルギーのアントウェルペンに集められて、ヨーロッパ各地に売られた。)
その後、ポルトガルだけでなく、他のヨーロッパ諸国も生産に乗り出した。そのため、大西洋の島々では手狭となり、生産地が中南米に到達。16世紀にはポルトガルの植民地であったブラジルが中心となる。
17世紀に入ると、世界経済の中心となったアムステルダムを拠点としたオランダ人が媒介して、生産地がイギリス領やフランス領のカリブ海にも移っていった。
本書には、カリブ海の砂糖プランテーションでの生産の様子が、具体的に描かれている。第2章では、砂糖が入ってくるまでのカリブ海の状況から、砂糖プランテーションが本格的に展開する流れと、プランテーションの農作業、加工作業の詳細が、絵も交えて説明される。
具体的な生産の状況について、①砂糖きびの植え付け、②砂糖きびの借り入れ、③砂糖きびを砕いてジュースを絞る(風力を利用している様子)、⓸ジュースを煮詰める、⑤蒸留し、結晶させる、⑥船積み、のそれぞれの様子を、絵で見ることができ、本の中で社会見学をしているようで興味深い。
また、船済みされた茶色の原糖は、ヨーロッパに送られ、さらに精製して純白の砂糖になる。イギリスでは、リヴァプールやブリストル、ロンドン等、オランダではアムステルダム、フランスではナント等、港町で精製工程が行われることが多かった。
また、16世紀以降の、ヨーロッパでの砂糖の消費のされ方について説明される。砂糖には、薬品、装飾品(デコレーション)、香料、甘味料、保存料という5種類の用法があったといわれている。人々が栄養失調の状態にあった時代には、カロリーの高い砂糖が万能薬的な効果を発揮した。
人の移動(奴隷貿易との関係)
砂糖の生産に伴い生じた、人の移動(アフリカの黒人奴隷が、カリブ海諸島の砂糖プランテーションに連れてこられた歴史)についても、様々な角度から説明されている。
ヨーロッパ人による、大規模プランテーションでの砂糖生産のため、主にカリブ海の島々やブラジルへ、アフリカの黒人が奴隷として連れてこられた。砂糖きびが奴隷制度をもたらし、カリブ海の島々では、アフリカから連れてこられた黒人奴隷が人口のほとんどを占めるようになった。
ジャマイカに関しては、先住民であったカリベ族が、スペイン人の持ち込んだ病気などでほとんど死滅し、メキシコやペルーからスペインに向かう銀船隊を襲う海賊(バッカニア)の隠れ家となっていたが、イギリスが軍隊を派遣し、占領。
宝探しや鉱山開発の場所であったカリブ海の島々は、17世紀には砂糖きび栽培が広まるが、砂糖きび栽培のみのモノカルチャーとなってしまった。
プランテーションの所有者であるプランターは本国へ帰り、他の白人の監督と大量の黒人奴隷の社会となった。
アフリカ文化を受け継ぎ、音楽などのアフロ・カリビアンの文化(ブードゥー教やキューバ・スタイルの音楽等)が生まれた。
奴隷がカリブ海に連れてこられる状況についても解説される。「中間航路」と呼ばれる大西洋の航路に、奴隷がぎっしり詰め込まれ、脱水症状や伝染病で航路途中で亡くなった奴隷も多かったという。16世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパ人によって、カリブ海やブラジル、アメリカなどに運ばれた黒人奴隷は、最低でも1000万人以上と推計。
これらの砂糖と奴隷の動きに加え、最初にヨーロッパを出発した奴隷貿易船が、奴隷との交換のため、鉄砲や綿織物などを持って行った過程を加えて、「三角貿易」といわれてきた。
砂糖商人の多くはイギリスに住み着き、イギリスの上流階級の人間として暮らすようになる(フランスも同様)。一方、アフリカには悲惨な影響をもたらした。
茶(紅茶)の普及との関係
茶の歴史と砂糖普及とのかかわりについても説明される。1600年に設立された東インド会社が、中国から茶を輸入していたが、その後、18世紀末からアジアのイギリス領植民地に茶が移植され、プランテーションが始まることとなる。
イギリスでの茶の普及の歴史にかかせない、社交の場として流行した「コーヒーハウス」の歴史が第4章で詳しく説明される。
イギリスでは17世紀以降、上流の市民の社交の場であった、コーヒーハウスで紅茶が普及していった。おそらくそのころコーヒーハウスで紅茶に砂糖が入れられるようになったという点が、砂糖の歴史にとって重要なポイントとなる。外国から来た貴重品であった茶と砂糖を組み合わされることが、ステイタス・シンボルとなった。
17世紀中ごろ以降は、中流の国民にまで普及していき、その後民衆にも広がり、「国民的飲料」となっていく。普及した要因として、初期にはヨーロッパ内で少量の茶を輸入していたのが、ヨーロッパ内だけでなく、アジアやアメリカ等、世界中との取引が増え、17世紀半ばにはカリブ海の植民地での砂糖きびの栽培が本格化し、茶と砂糖の輸入が一気に増加した点が挙げられる。
上述の通り、コーヒーハウスで紅茶と砂糖が合わさり、イギリスでの砂糖の普及にもつながったが、コーヒーハウスは社交や情報交換の場としても、歴史的に重要な役割を果たした。例えば、科学者が集まった王立協会は、コーヒーハウスでの交流から生まれた。また新聞や雑誌も、コーヒーハウスでの取材から発達し、金融関連の情報も集まっていたので、証券会社や銀行、保険会社もコーヒーハウスでの交流から発展していった。その後、コーヒーハウスが廃れていった経緯にも触れられている。
産業革命の砂糖普及への影響
砂糖は有力なカロリー源として、紅茶と組み合わされて、「イギリス風朝食」の基本となり、産業革命時代のイギリス人の生活の基盤となった。
18世紀末から19世紀初めにかけて「産業革命」が起こるが、この時期に、砂糖入りの紅茶が、イギリスの労働者の普通の朝食の中心となっていった。このような変化が起こった背景が、以下の通り説明される。
工場制度がはじまると、時間に厳格な生活が求められ、朝食はすぐに用意できて(お湯を沸かすだけ)、活力が出るものでなくてはならなくなった。そのため、砂糖入り紅茶は、上流階級のシンボルでありつつも、工場労働者などの民衆の生活必需品にもなった。結果、19世紀には、イギリス人が世界トップレベルの砂糖消費国となった。
工場経営者は、「労働者の「安価な朝食」を確保するための動き」を強める。つまり、穀物、砂糖、茶を安くする必要性が高まった(※産業革命の中心が、綿織物工業の発達したマンチェスターであったため、この動きを推進した人々は「マンチェスター派」と呼ばれた)。それぞれ、以下の経緯で安くすることができた。
- 穀物(穀物の値段を上げたい「農業経営者」との対立)
産業革命にともなって、地主や農業経営者を保護する立場(穀物の値段が下がりすぎないようにする政策「穀物法」)から、都市の労働者を保護する方向へと傾く。つまり、工場経営者や労働者の立場を重視する、「穀物の値段が上がりすぎない」流れになってくる(反穀物法の立場であるマンチェスター派が主導)→穀物法が1846年に廃止される→安上がりの食事が可能となる→賃金が下がる→工業製品の価格が下がり、輸出競争に有利になる(農業より工業を保護)→穀物は輸入するようになる。 ⇒穀物を安価にすることに成功
- 砂糖(砂糖の値段を上げたい「砂糖プランター(西インド諸島派)」との対立)
イギリスは、カリブ海の植民地で砂糖プランテーションを展開していたものの、国内需要が高かったため、砂糖の価格は高いままであった。また、砂糖プランターたち(西インド諸島派)の働きかけで、砂糖の輸入は、数々の保護立法や高い関税に守られていた→マンチェスター派らは、奴隷貿易や奴隷制度を批判→奴隷制度が廃止され、カリブ海のプランテーションは崩壊。「西インド諸島派」も消滅→イギリス領の植民地に有利な特恵関税制度も、税率が引き下げられていき、1852年には外国産の砂糖と同率になる。 ⇒砂糖を安価にすることに成功
- 茶(茶の値段を上げたい「東インド会社」との対立)
→東インド会社も、強固な独占体制と高関税で守られていたが、独占貿易が廃止される。 ⇒茶を安価にすることに成功
こうして、労働者の朝食(穀物、砂糖、茶)安価にすることに成功した。
なお、奴隷制度廃止は、(人道的な側面よりも)あくまでイギリスの労働者の「安価な朝食」の確保を目的にしていたともいえる。その証拠として、マンチェスター派が、外国の植民地の奴隷制には反対しなかった点が挙げられている。
また、奴隷制を廃止された砂糖プランターたちは、当初は元奴隷を「徒弟」として不自由な立場におき、労働力として利用し続けようとしたが、その後インド人、中国人、インドネシア人、日本人などアジア人の「契約労働者」に切り替えていった。→奴隷制度に頼るブラジルやキューバの前に、イギリス領のカリブ海植民地の砂糖生産は、急激に競争力を失っていった。
アメリカ植民地との関係
イギリス以外のヨーロッパ諸国には、砂糖入りの紅茶を飲む習慣はあまり広がらなかったが、アメリカの13植民地には広がった。
アメリカで、イギリス人らしい生活をしようとしていた(イギリスのジェントルマンの生活を真似したい)、上流階級のイギリス人地主(タバコ植民地のプランター等)はその習慣を取り入れた。イギリスから茶やそれに関する様々なもの(ポットやスプーン等)をはじめ、雑多な工業製品を輸入した。それはタバコをイギリスに輸出することで可能となった。
しかし、以下の流れを背景に、イギリス的なことを追い求める習慣が少なくなっていった。
七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)で勝利したイギリスは、1763年のパリ条約によってカナダなどを獲得。戦争には勝っても(それまでの数々の戦争もあり)、大きな借金が残る。
→アメリカ植民地の防衛戦争でもあったので、イギリスは、アメリカ植民地も費用を負担すべきと主張し、植民地に印紙税をかけるとの宣言。
→憤慨したアメリカ植民地の人々は、紅茶などのイギリスからの輸入品をボイコット。イギリスのジェントルマンの真似はやめて、植民地の衣服や食べ物を使う運動に発展。
→大成功し、印紙法も廃止される。
→翌年の1767年には、イギリスがペンキ、茶等に税金をかける法律を施行したが、再度ボイコットとなり(本国に議員を送り込んでいないのに勝手に課税するな!)、茶の税金のみ継続。しかし、植民地ではすでに、「イギリス人のように」ではなく、「アメリカ人として」生きるように意識が変化していた。
→1773年、茶を積んでボストン港に入った3隻のイギリス船に、先住民に扮装した「自由の息子たち」となる集団がひそかに潜入し、積み荷の茶を海中に捨てる「ボストン・ティー・パーティ事件」が発生。アメリカ独立運動の決定的なきっかけになった。
⇒イギリスの茶を飲むといった、イギリス的なものを追い求めることに熱心でなくなった。中南米でとれるコーヒーを飲み、後にコカ・コーラの国になった出発点がここにあった。
その他
以上の通り、本記事では、「砂糖」「人の移動(奴隷貿易)」「茶の普及との関係性」「産業革命の影響」「アメリカ植民地との関係」という5項目に絞ってまとめたが、本書にはそれ以外にも、以下のような興味深い内容が解説されている。
・植物園の歴史(※薬品や食料、建築資材、燃料も動植物を素材としていた時代は、新しい「有用な植物」への関心が高かった。)
・チョコレートの歴史
・日本の砂糖業の歴史
・ビート糖の生産の増加や食生活の変化(カロリー過剰摂取への抵抗)
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関連情報:アメリカでの砂糖プランテーションについて
北米を主要テーマとするこのブログとしては、カリブ海諸島だけでなく、アメリカでの砂糖プランテーションの歴史にも触れておきたい。「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」に非常にわかりやすい記事(”The sugar that saturates the American diet has a barbaric history as the ‘white gold’ that fueled slavery.”)があったので、記事の一部をサマリー的に紹介したい。(※詳細かつ正確な内容は、下のURLより原文を読んでいただきたい。)
・1751年にニューオーリンズで最初の砂糖きびの栽培が始まる前、1720年代までには、イギリス統治下であったニューヨークの港の、2隻に1隻はカリブ海から到着した船か、そこに向かう船であった(主に、砂糖や奴隷の輸入・運搬、小麦粉や肉、造船資材の輸出)。
・1795年に、ニュー・オーリンズの砂糖プランターが、初めてルイジアナで砂糖の精製をおこなったことにより、ミシシッピ流域での砂糖プランテーションが、急激に増加した。砂糖きびの栽培に適した土壌と、フランスやスペインの(カリブ海での)経験豊かなプランター、フランスからのハイチ独立の影響による、数多くの奴隷の労役によってそれが可能となった。
・それから50年以内に、ルイジアナのプランターは、世界の砂糖きび供給の4分の1を占めるまでになり、ルイジアナは人口1人当たりで、アメリカで2番目に豊かな州になった。
・19世紀半ばの20年間で、奴隷人口は4倍にまで膨れ上がり、ニュー・オーリンズは奴隷を売る最大規模の市場(the Walmart of people-selling)となった。砂糖プランテーションで労役する奴隷も倍増した。
※その他に、本記事には奴隷の過酷な労働環境などについても、詳細に書かれている。
出典:The sugar that saturates the American diet has a barbaric history as the ‘white gold’ that fueled slavery. (https://www.nytimes.com/interactive/2019/08/14/magazine/sugar-slave-trade-slavery.html)
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